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昭和29年 山形新聞掲載記事

内容

第一回西置賜地区親子大会は去る廿八日に長井高校北校舎で開かれたが、この席上早く夫と死別し苦難の道を切りひらいて子供たちを立派に育てあげたという強く美しい慈愛の母二人が今野社会福祉協議会長から表彰され、集った同じいばらの途を歩む未亡人の涙を誘った。表彰されたのは長井市ママの上坂野まち(五五)さん、次はその苦難の物語りである

△坂野まちさんは廿年前末子の啓吉君(山大教育学部在学中)が生まれた年、骨董商をしていた夫吉輔さんが悪質な腰部神経痛で倒れた、中学の長男を頭に四男一女の子供を抱え病床の夫を看護しながら廿年間も昆布巻をつくって売り歩き生活を支えてきた。夜遅くまでかかって何百本も昆布を巻き朝は四時起きして煮込みをし米沢の学校に汽車通学の子供たちを送り出すため、昼は足を棒にして行商をつづけた、戦前十銭に数本のころは利益も少なく何度投げだそうとしたかしれなかったという、だが雄々しくも健気な母の姿には世間は黙っていなかった、病院、会社などで大量に買いこんでくれ、仕事にも励みがつくようになった、だが戦争中は長男が兵隊にとられ行商と売り食いのもっと辛い生活がつづき、やっと戦争がすみ長男が復員したと思ったら廿一年春吉輔さんの病状が悪化し、一家団らんの夢もむなしく世を去ってしまった
失望と悲嘆にかきくれたが、まち(五五)さんは屈せず、長男富蔵(三三)氏に米沢高専を卒業させ、いまは電機工場の課長に、長女ふみ子(三一)さんは米沢洋裁を出し四年前嫁がせ、次男啓輔(二九)氏は山大教育学部を今春卒業といずれも立派に高等教育を受けさせたもので表彰状には”子女の教育に全身を捧げこれを全うした努力は他の模範とすとあった”まちさんは今も毎日息子たちが老後の母に報いようと引きとめるのもきかず”遊んでいては勿体ない”と昆布巻の行商を続けているのである。

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